第一回21世紀コミュニティ研究会ミーティング

21世紀型コミュニティ研究, ブログ

2022年3月29日(火)第一回目の21世紀コミュニティ研究会のミーティングを開催。

参加者

  • 田原 真人(デジタルファシリテーター 非暴力アナキスト 参加型社会活動家)
  • 高橋翔”SHO-T”(創造の民主化活動家 (株)pressman CINO/ NoCoders JAPAN 代表理事)
  • 玄道 優子(Miro革命 IAF Certified™ Professional Facilitator)
  • 中井 祥子(メディアリタラシー オトナと子どもの遊び場『原っぱ大学千葉』主宰)
  • 上村 遥子(インタープレナー SUNDRED Corporationコミュニティデザイナー)
  • 金野 美香(人事 労務 組織開発 日本ES開発協会 理事長)
  • 相宮 幸二(WEB作成 動画編集 軌跡探求)

説明:田原 真人

時代の終焉と人口減少

今、僕はコロナの時代っていうのが、”近代”というか”工業”時代の終わりの時期だなと思っていて、
で、その”なんちゃら時代”みたいなのが「何によって定義されていて、それが終わっていく」とはどういうことなんだろうか?みたいなことをずっと考えています。

 

今まで、”なんちゃら時代”みたいなのが終わるタイミングって、”人口の減少”が起こっているんですよね。

新石器時代があり、その後に農業時代が始まる訳ですが、新石器時代が限界に達して人口減少が起こって農業時代が始まるし、農業時代が限界に達して人口が減少して工業時代が始まる。新石器時代が終わりの人口が減少するタイミングで宗教が生まれています。農業時代は”宗教”をベースにして反映していきますが、農業時代が限界に達して人口が減少するタイミングで、ルネッサンスが起きて科学が登場するんです。

その科学をベースにして工業時代、つまり、”近代”が生まれたんですね。今、工業時代が行き詰まって人口減少フェーズに突入してきているってことは、「宗教」とか「科学」みたいな、その次の時代のベースになるような「捉え方」みたいなものが、多分生まれてくるだろうし、次の時代っていうのは、その「捉え方」の影響を受けて作られていくのだろうなと思います。

工業社会を形作っていたもの

工業時代がの前の農業時代は、封建社会で、王様とか領主に人々が所有されていて、身分制に基づいて統治されていた時代だったと思います。一般の人は、農村共同体の中で、互酬性で、相互に密接な関係を持って生きていたのでしょう。

各時代には、その時代を成立させている“〇〇点”セットみたいなものがあると思います。封建国家のによって成り立っていたヨーロッパで市民革命が起こって国民国家ができたら、封建国家の軍隊よりも、国民国家の国民軍のほうが強くて、周りの封建国家を圧倒していって、植民地化も押し進めていったわけですよね。

そこに科学の発展も加わって軍事力が増して、植民地が広がっていった結果、お互いがぶつかって”世界大戦”になって、その間に核兵器が開発されて…っていうのが工業時代の前半の動きだと思います。

核兵器が開発されてしまったことで、物理的な戦争が人類の滅亡に結びつくことになり、物理的な戦争が非常に制約されるようになったので、その代わりに、経済戦争とかサイバー戦争に移行したのが工業社会の後半。その中で、多国籍企業が生まれて、国民国家を超える「グローバリズム」の動きが出てきていると思います。

国民国家の成立には、国民意識を構築するためのマスメディアの働きがあった訳なんですけど、それは、「国家」というフィルターバブルの中に入ることで、「国家」という共同幻想を維持するという仕組みでもあると思います。その共同幻想を成り立たせていたフィルターバブルが、インターネットによって破られてくときに、人類は、どのような単位で仲間意識を持って生きていくのか?エコーチェンバーによって小さな単位に分かれて分断してしまうのか、個人が多様性を内包して調和していけるのか、今、岐路に来ていると思います。

”市場経済”も国内での市場経済じゃなくって、グローバル市場経済になっていって、金融経済が膨張した結果、1%VS99%の格差社会のようになり、”超富裕層”が生まれて、そういうところが株主資本主義で企業をお金で所有するようになっていくと、一般の人はお金を稼ぐために不本意な行動を取らざるを得ない状況が生まれて、民主主義を成り立たせる前提である一人ひとりの自由が制限されるようになってきていると思います。

インターローカリズム

近代を特徴付ける”国民国家”・”学校”・”マスメディア”・”市場経済”のようなセットが、行き詰ってきているのと同時に、次の可能性が少しずつ見えてきている。”次の社会の方法論の模索”が起こっていると思います。

”グローバリズム”とWev2.0の世界観がさらに進んでいくと、管理体制が強化されて「デジタル全体主義」にいくか、エコーチェンバーとフィルターバブルによって「見たいものだけを見る」ようになって小さな集団に分断されてしまう「デジタル暗黒社会」のようになるかして、どっちにしろデストピア的だなと感じています。

そうならない道としては、多様な関係性を充実させて、100人規模のコミュニティ活動を充実させながら、それらがお互いにネットワーク化していく”インターローカリズム”みたいなものが一つの候補じゃないかなと思います。

「戦争をどうやって終わらせるか?」というのが、大事な問いだと思いますが、「戦争を継続するには、戦争をしたい人たちが、プロパガンダを使って人間の本能的な攻撃性にアクセスして、それを煽り続ける」のが必要なので、それが起こらなくなるような人間集団の区切り方というのがあるのではないかなと。

人が、5-6個の地域コミュニティやオンラインコミュニティ、または、それらを融合したコミュニティに所属していて、オンラインコミュニティには地域を超えた多様な人たちが混じり合っていて、そこで互酬的な活動を営んでいるということになると、マスメディアよりも知り合いからの情報のほうがシンラインできるし、同じコミュニティの人たちが二手に分かれて戦争にならないように動くはずだと思うんですよね。

だから、人間がコミュニティの作り方を変えると、いろいろなものが変わってくるんじゃないかなと思います。私は、そのような対面とオンラインを融合したコミュニケーション空間における多層なコミュニティのことを「21世紀型コミュニティ」と呼びたいと思っています。

それが、生活の基本単位になっていくと教育も変わりますよね。今の学校制度は、国民国家の国民になっていくための教育であり、企業のヒエラルキー組織の社員になっていくための教育という色合いが濃いですが、21世紀型コミュニティが生活単位になれば、「21世紀型コミュニティへの”正統的周辺参加」が教育の軸になると思います。自分が所属したい21世紀型コミュニティの一員というか、何と言うんですかね、相互扶助の分業を担う一員になっていくような教育、学びはどう定義できるのだろうか?ということですね。

中央集権構造を維持するためのメディアがマスメディアだと思いますが、21世紀型コミュニティが維持されるメディアとは、一人一人が当事者として発信し、そこから物語が自然発生したり、お互いが学びあったりする参加型のメディアになるはずです。参加型メディアを使いこなして民主的に生きていくためには、デジタルシティズンシップのようなものが必要になるんでしょうね。

経済についても、現在は法定通貨によって統一されて、一極集中しちゃっていますが、”コミュニティ経済”と”グローバル経済”をハイブリッドさせていくような経済の”あり方”が、模索されはじめているんじゃないでしょうか。

各分野で、同時多発的に新しい方法論が模索され、方向性が少しずつ見えてきているような時代状況かなと思ってます。

コミュニティの再生

近代の識知は、科学という因果論ですよね。近代の次の時代になるということは、識知が変わるということだと思います。それで、縁起論のようなものが新しい時代の識知になっていくんじゃないかなという予感の中で動いています。そういう関心から、アクターネットワーク理論(ANT)に注目しています。

「21世紀型コミュニティ」とは一体なんなのかというと、人間はコミュニティという生活単位がないと生きていけないので、各時代には、その時代にあったコミュニティがあったと考えていて、じゃあ「21世紀に新しい時代が生まれるのだとしたら、その時代に合ったコミュニティというものも同時に生まれるはずだ」ということなんです。農業時代は農村共同体を生活単位にしていて、工業化することで”農村共同体”から都市に人が出ていき、農業も自給的な農業から、工業的な大量生産的農業に変わっていき、”規格化”・”画一化”・”大量生産”という目で世界を捉え直すようになった訳ですね。

その結果、”農村共同体というコミュニティ”が崩壊し、その代わり”企業コミュニティ”というものができ、会社の中がコミュニティになっていった。今、企業コミュニティが崩壊して、単なる機能になってきて、人間がバラバラになってきたのだと思います。その状況の中で、新しい形でコミュニティ再生が起こっていくとしたら、どのようなものになるのか?という問いがあるわけです。

インターネットが出てきたときに、工業社会の「生産の目」でインターネットを捉えた人と、次の社会のインフラとしてインターネットを捉えた人とがいたのだと思います。

”大量生産”・”画一化”・”均質化”という「生産の目」でインターネットというものを見ると、仕事を自動化して効率化するためのものだというように見えると思います。DX(デジタルトランスフォーメーション)の多くが、こちらの文脈で語られていると思います。

一方で、インターネットを21世紀型コミュニティの観点から考えた時にどうなるか?

農業というものは恐らく(もうひとつの)ローカルが見直され、”自給農業”、半農半X(エックス)的なものが見直されていく流れがあるだろうと…
大量生産がベースではなく、必要なものを必要なだけカスタマイズして作るようなオンデマンド化のようなところに行き着いた時、”必要なものは必要なだけ”という「自分らしい生き方」が来るんじゃないか?と…

コミュニケーション空間というか情報空間が、工業社会のための生産を管理する情報空間ではなく、「人が生きていくための情報空間」へと再定義されていくだろうと…
「生きる単位」としては”個人”が更に分解され、色々なコミュニティやプロジェクトに多層的に所属していく事が”オンライン化”によって可能になり、生身の自分がいる地域がその多層的所属の中の一つであり、オンラインでそれ以外の色々なコミュニティに所属していくという形になって一人で何人もの人生を生きるような感じになっていくのではないか?と…

先日、三宅洋一郎さんが、「オンラインゲーム」と「メタバース」の違いについて話されているのを聞いて、なるほどと思いました。

彼が言うには、「オンラインゲームというのはやることが決まっていて、世界観も決まっていて、そのゲームのデザインの中でユーザが遊ぶんだ」と、でも「メタバースというのは空き地のようになっていてユーザーがやるべきことが決まっていないところ(空間)の中でなにか”事件”が発生する。その”事件”が語り継がれ、そこの場所で起きた”ドラマ”とか”物語・神話”のようなものができていく、と言うのがメタバースであり、その活動がデザインされてるか、オープンスペースになってるかというのが違いなんだ」と、正確な言葉使いは違うかもしれませんが、私は、このような内容だと理解しました。

今までその情報空間というのは”リアル”の生産を効率化するためのものとして使われていたが、その情報空間自体がオープンスペースとして「なにか新しいものが生まれてくるための場所」として使われるようになり、その場所で生まれたものを必要に応じて現実の世界に反映させていくような、今までとは優先順位が変わっていく。

このような観点から、”21世紀型コミュニティ”を定義できていけるのではないか?と考えています。

デジタルファシリテーション

そうなっていくと人間の活動自体が、”オンライン”と”リアル”を結びつけた「統合されたコミュニケーション空間」になっていく。
”情報空間”と”現実”を連動させることを”デジタルツイン”と言っているのですが、その”情報空間”の中での活動自体を「どのようにデザインしていくのか?」そして、その活動を促進するファシリテーションを”デジタルファシリテーション”として定義すると捉えやすいのではないか?と思っています。

例えば今、玄道さんと一緒に行っている「在来種の種をどのように守るか」というプロジェクトがあります。そのプロジェクトは”日本”・”韓国”・”中国”・”台湾”の四地域で行っていますが、なぜ今、在来種の種が減ってきてしまっているのか?というと、”ものづくりの時代”の種として価値判断されていたからです。
”生産の手段”として種を捉えると、大量生産型の工業生産のための種の方が効率がいい。
なので、そちらが使われ、実際にその種を蒔いて種を継いでいく在来種の種を使う人というのはどんどんいなくなっていった訳です。

ところが「ウェルビーイング」とか「どう生きるか」のということに光が当たるようになり、自分の生活の多層的所属のひとつのプロジェクトの中にポートフォリオとして農業を入れてこうと思った時、やっぱり在来種の方が面白い。自分で種を取って蒔き、段々いろんな種を人と交換してという感じで…

だから、人と繋がるコンテンツとしての価値は「F1種」の大量生産用の種よりも在来ものの「固定種」の方が高いんです。コミュニティ生成には、文脈とか物語とかが重要になるので、歴史性、物語性を凝縮させた形で持っている在来種の種は、強力なアクターなんですね。

種の交換会などのいろいろな交流会の場で「なぜ、その土地でその種が継がれてきたのか?」という歴史など、”食べる”・”学ぶ”・”育てる”・”守る”といった本質の中から、その価値がもう一度掘り起こされていくという事が起きていく。

また、「誰が、どこで、どのような種を作ってるのか?」といった情報がグーグルマップなどの地図上に可視化されていき、その可視化された情報を元にして後々も交流する事ができるように「活動の痕跡」が残っていくようになると、その「活動の痕跡」を使った新しい遊びや学びが生まれたり、新たな活動が生まれていくような事が起こるだろうと、何となくそれが僕の考えているアクターネットワークセオリーをベースにしたデジタルファシリテーションのイメージのようなものです。

背景としては、近代というのは人間が論理、顕在的な順序的、時間的な構造というものを作り、この図の右側のツリー構造のようなものを現実のものとしてきたというのが近代だったとすると、左側の潜在的なネットワーク縁起の世界のような方へと世界認識を変えて社会を考えたり、働くを考えたり、教育を考えたりするという”世界の捉え方の変換”と”コミュニティ活動の変換”、”ファシリテーションの変換”というのが必要だな、と考えています。

なので、相宮さんのWEBの作り方とも関係しているのですが、今までの作り方は”枠組み”を作り、その”枠組み”に”中身”を埋めていく、で、「完成しました。」という作り方でしたが、中身から始まって、何かが出てきて、この中身というのが非常に身体性と関わっていて、その中から何か感覚的に色々な”なにか”が出てきて、段々「それって一体なんなんだろうね?」と少しずつ意味が見えてくる。
意味が見えてきたら「一旦、形にしてみようか?」と、”枠組み(フレーム)”を作って中を埋めていく。その時には今までやってきたような様々なノウハウが活用されていくので、「中身から枠組み→枠組みから中身」をぐるぐる回していくような活動になっていくだろう。それを象徴的に書くとオープンスペースの中での”学び2,0″と言っています。

一人一人の”実感”から、”発信”されていくような”参加型”の場があり、そこから「社会的なバンド」が作られ、アウトプットされ、そのアウトプットに出会った人達がまたオープンスペースに巻き込まれていくような”渦”が”21世紀型コミュニティ”のなんとなくの活動のイメージなのではないか?
そのプロセスの見守りと舵取りをしているのが「デジタルファシリテーション」なのではないかな?と思っています。

プロジェクト・センタード・デザイン

そうなると単位が「社会的バンド」とかプロジェクトというものになってくると思うので、活動やプロジェクトを単位として考える「プロジェクト・センタード・デザイン」のようなものなり、その”プロジェクト”が外側から物とか製品とか人とか情報を”なにか”を作るために資源統合し、試行錯誤を繰り返しながら学び、新しいものを作っていき、外に提供して循環させる。なんかそういうイメージです。

そうなると、学ぶのも「いつか役立つから」とか、「こういうものが社会的に価値があるから」ということで、カリキュラムが作られるよりも、自分たちがプロジェクトで「何かをやってみよう」と思った時に、それをやるためにヒントになるものをその時に学ぶ。
「教える人のスケジュールに合わせて学ぶ」というのが今までの教育方法ですよね。教えるべきことが決まっている時は、教師のスケジュールに合わせた教育デザインが合理的ですが、学びのニーズがはっきりしないで、何のために学ぶのかが分からなくなりやすい。

一方で、多様化が進み、且つ、インターネット上にアーカイブがたくさん残せるという環境になると、やりたいと思う時に必要なものを学ぶという方が合理的になります。

よって、「学び方のデザインが変わり、プロジェクトメンバーが学びたいタイミングで必要なものを引っ張ってきて参考にしながらやってみて、やってみた結果を他の人のためにアーカイブとして残す。」
そういった「学びのエコシステム」に変わっていくだろうと思っています。

因果的AIと縁起的AI

今、非常にAIに興味を持っています。それはAIの何に興味を持っているかというと、人間の進化は道具の進化と非常に連動していたという事です。
人間の認知が複雑になるにつれ、”旧石器”ができ、さらに人間の認知が複雑になると”新石器”ができ、もう少し長期的に考えられるようになると農業ができるようになり、さらに様々な部品を組み合わせた機械を作る事ができるようになり、結果、工業的な機械が作れらるようになったというように、人間の認知と意識の拡大とその道具というものが、共に相互に影響しながら”共進化”してきていると思っています。

その流れで、人間が新しく作った道具というのがAIだと思っているのですが、AIは実は二種類あって、ひとつはその工業的なパラダイムの下で作ったAI、僕はそれを”因果的AI”と呼んでいるのですが、工業的なパラダイムでは、データの中に「因果的に再現可能なルールのようなものがある」と考えてられていて、それを”ビッグデータ”から発見し、そこから決定論的なルールというのを見出すと…
そうする事で、インプットすれば”決定論的なルール”に当てはめて「こうなるよ」というアウトプットが出てくる、という。

これはデカルト&カント的な認識論がベースになっていて、その”世界”というもののモデルがAIのネットワークの中に構築されるイメージですね。
そのためには、データがたくさんあればあるほどいいという感じです。

もうひとつが縁起的AIというもので、僕はこっちが凄いなと思っています。
縁起的AIは、データから可能性をベイズ統計というもので展開し、推論の確率分布を作ります。
能動的推論と言うのですが、推論の誤差を最小化するように行動するという行動原理で動くようにすると、決定論的なルールを持たないまま、何とかやっていける。僕たちの生きてる時の動きというものは、どちらかというとこちらに近い。

AIの歴史を調べると非常に面白い。元々は”因果的AI”を作っていたのですが、それだと、なんかどうも限界があって突破できないという事になり、少し盛り下がってきた時に”人工知能論”の”ドレイファス”がハイデガーをベースに「世界内存在」という本を書いたんですね。その本で人工知能を批判したんです。

その後、それをべースにして「状況に埋め込まれた学習」という本が書かれたことで今までのAIの捉え方がパラダイムシフトしていきました。

その「状況に埋め込まれた学習という観点でAIを組み直していったら、ブレイクスルーが2017年に起こり、その延長線上で、今様々なAIのサービスが生まれています。

今は丁度、熱力学が誕生する前のエンジン・蒸気機関を作っていた時代のような感じで「どうやって、このようなAIを作ったらいいか?」という原理がよく分かんないまま、「でも、なんかすごい役に立つAIが作れる」という感じで、職人芸的に作っているのですが、クラークとフリストンという人達が、AIや自律ロボットの理論的な根拠をコラボレーションで作ろうとしていて、「自由エネルギー原理」という捉え方で総合的に扱える理論づけを進めているそうです。それができるようになると、次の時代の原理になるようなものが生まれてくる可能性があるな、と思って注目しています。

21世紀型コミュニティとは?

結局、”21世紀型コミュニティ”とは、近代の次のパラダイムの生活単位になるようなものなんじゃないかなと。それは、これまでのように単一じゃなく、多層的で、対面とオンライン、メタバースなどを総合した拡張コミュニケーション空間におけるコミュニティになるだろうと。

コミュニティ内の活動デザインは、クラークやフリストンが研究している「能動的推論」や「自由エネルギー原理」とか、アクターネットワーク理論とかがベースになる新しいコモンズのようなものになるのではないか。価値交換は、「現象学的にものを捉えていく」という捉え方が重要視されて、現在の「グッズドミナントロジック」から、「サービスドミナントロジック」へシフトして、新しい貨幣の使い方などが検討されるのではないか。今までの延長線上で考えるのではなくて、なにか新しい目で捉え直し、その”リアル”と”オンライン”の融合とか、デジタルの活用とかを実践しながら考えていくと、見えてくるんじゃないかと思っています。それが今の社会のパラダイム自身が作り出している問題を解決するような、なにか新しい活動になればいいなと希望を抱いています。

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